シャネルを復活させた唯一無二の「モード界の帝王」カール・ラガーフェルド
常に新しいファッションを生み出し続けたファッション界のレジェンド。
Karl Lagerfeld
ドイツ生まれのファッションデザイナー。写真家。
カール・オットー・ラガーフェルド
1933年ドイツの北西部、ハンブルグ生まれ。父親はコンデンスミルクの輸入業を営んでおり裕福な家庭で生まれ育ちます。(カールの生まれた年は諸説あるとされています。)
幼いころから絵の才能に秀で、ファッションやアートに関心の強かったカールは、ハンブルクで観たクリスチャン・ディオールのショーに衝撃を受けます。
1952年14歳で単独でパリに移住。オートクチュール組合が経営する洋裁学校に入り、服作りの基礎を学びます。
1954年16歳の時に IWS(国際羊毛事務局)のコンクールのコート部門で優勝。(この時ドレス部門で優勝したのが当時19歳だったイヴ・サンローラン)
17歳でキャリアスタート
コンクールの主催者である、ピエール・バルマンにその才能を認められ、17歳の若さで、バルマンのアシスタントとしてキャリアをスタートさせ、アシスタントを3年間務めます。
1958年20歳でジャン・パトゥのアーティスティックディレクターと、オートクチュールメゾンで経験を積んでいく中、オートクチュールの存在に疑問を感じ、イタリアに渡りフィレンツェで建築、絵画、彫刻などの美術史を学びます。
フリーでChloéで活動
1960年に入り、パリへ戻ったカールラガーフェルドはフリーデザイナーとして活動を開始。始めの仕事はクロエで、その活躍、功績が認められ、1963年創業者のギャビー・アギョンの任命によりヘッドデザイナーに就任します。1970年までにパリの知る人ぞ知るブランドから、カールによって世界的ブランドへと成長を遂げました。
老舗FENDIのデザイナーに就任
1965年にフェンディの主任デザイナーに就任。27歳の若さでイタリアの老舗ブランドを任されます。就任当時は短期間だけの仕事と公言していたが、以後半世紀以上にわたり、カールの人生で最も長く関わったブランドがフェンディです。
イタリア・ローマを拠点にするフェンディ姉妹と協業し、いちイタリアンブランドを高級なファーに特化した世界的ブランドに引き上げた反面、毛皮に特化していたことから、動物愛護団体PETAや反対諸国から猛烈な批判を食らうこともあった。
CHANELのデザイナー就任
1971年ココ・シャネルがこの世を去った後、長らく低迷していたシャネルですが、1983年シャネルのアラン・ベルテーメール会長がカールをデザイナーに起用すると一変。ドイツ出身のデザイナーが、フランスが誇るメゾンで務まるのかという論議を呼ぶ中、カールはオートクチュールを「50年代の遺産で、モダンではない」と一蹴。デビューコレクションで、こうした揶揄を黙らせた。「彼はシャネルのスピリットを壊すどころか、その特徴をより輝かせていた」と、『ニューヨークタイムズ』誌は高く評価し、見事シャネルは復活を遂げかつての地位に返り咲きます。
シャネルのデザイナーに就任したことで、”カール・ラガーフェルド”の名前はご存知の通り、飛躍的に世界中に浸透することになり、1983年から死去する2019年までデザイナーとして関わることになります。
後任には長年カールの右腕でとして働いてきたヴィルジニー・ヴィアールが即座に就任した
「伝統は、細心の注意をもって扱う必要がある。なぜなら、それは自分らしさを殺しかねない。リスペクトは、決してクエイリティブではない。私がシャネルでやったことは、シャネルの歴史をアップデートしただけ、スタイルの収斂だ」と語っている。
デ・ドール賞(金の指貫き賞)受賞
1984年自身のブランド「カール ラガーフェルド」をスタート。
1986年、パリオートクチュール協会に加盟する最もクリエイティブなデザイナーに贈られるデ・ドール賞(金の指貫き賞)を受賞します。
1988年、マルティーヌ・シットボンにクロエのデザイナーを譲りますが、1992年再びデザイナーに復帰し5年間勤めた後、1997年にステラ・マッカートニーに後任を任せます。
2001年、一時体重が100キロを超えていたが、当時エディスリマンがデザイナーを務めるディオール オムの細身のスーツを着たいがためにダイエットに挑戦、13カ月で42キロの減量に成功した。
2019年2月19日午前、パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌにて、姉に見守られながら死去した。享年85。亡くなるまでデザイナー職の地位にあった。