女性の生き方をファッションに取り入れた”ココ・シャネル”

女性の生き方を自らの人生で伝えたココ・シャネル。

Gabrielle Bonheur Chanel(Coco Chanel)

ガブリエル・ボヌール・シャネル。通称ココ・シャネルはフランス生まれのデザイナー。

ガブリエル・ボヌール・シャネルの歴史

1883年8月19日フランスのオーベルニュー地方に誕生します。

幼少時代に母親が他界し、父親に孤児院に置き去られ孤児院や修道院などで幼少期を過ごします。

その後、孤児院で共に過ごした友人と歌手として生計を立てていました。友人の結婚を機に、歌を聞きに来ていた客と愛人関係になり、さらに愛人の友人カペルと交際を始めます。

帽子専門店「シャネル・モード」出店

実業家であったカペルはシャネルに出資し、1910年にカンボン通り21番地に帽子専門店「シャネル・モード」を出店します。現在カンボン通りの31番地に移転していますが、現シャネルの本店となっています。シャネルの帽子は当時の有名女優たちが身につけ徐々にシャネルの名が浸透していきます。

モードブティック「ガブリエル・シャネル」出店

1912年ドーヴィルに自身初のモードブティック「ガブリエル・シャネル」をオープン。1913年、それまで男性肌着用の素材と考えられていたジャージー素材を用いたスポーツウェアを発売しました。

オートクチュールブティック「メゾン・ド・クチュール」出店

1915年フランスのビアリッツに初のクチュール ハウス「メゾン・ド・クチュール」をオープン。300人のスタッフを雇い入れ、初のオートクチュール コレクションをデザインしました。

創業当初、ヨーロッパの女性の服のスタンダードはコルセットとバルーンスカートでしたが、「古い価値観にとらわれない自由で自立した女性像」「女性のための服」をコンセプトに、初のオートクチュール・コレクションにて、ジャージ素材を使用したドレスを発表。ファッション界の歴史を塗り替える、コストの安さ、コルセットからの解放、シンプルな着心地の良さ、無駄のないデザインが話題を呼び一躍脚光を浴びることになりました。

他にもツイード素材のスーツや、喪服の色としてタブーとされていた”黒”をファッションに取り入れた「リトルブラックドレス(LBD)」はシャネル・モード最高傑作とも言われ、「黒は喪を表す色でなくモードな最先端の色で、着る人の個性を引き立てるシックな色」という位置付けを誕生させました。

香水「CHANEL N°5」誕生

1921年シャネル初のフレグランスで不朽の名作「シャネル N°5」を発表。この「女性そのものを感じさせる、女性のための香り」は、調香、ネーミング、ボトルデザイン、その全てが既成概念を覆すものでした。ガブリエル・シャネルと調香師エルネスト・ボーの出会いから生まれ、後にマリリン・モンローが記者に「寝る時に身につけるものは?」と質問され、「No.5を数滴」と答えたエピソードが話題となり爆発的人気となります。1922年には「N°22」を発表しビジネスを発展させていきます。

シャネル香水会社設立

ビジネスとして拡大させるためにフランス最大の香水、化粧品企業のオーナーだったピエール・ヴェルタイマーの支援を受け1924年に香水会社を設立しブティックと同時にさらに事業を拡大させていきます。1939年までには従業員数4000人を超える一大企業にまで成長させていきます。 

第二次世界大戦でブティック閉鎖

1939年第二次世界大戦が勃発し香水とアクセサリーの店舗を残し全ブティックが閉鎖に追い込まれます。1940年にドイツ軍によってフランスが占領され、シャネルはドイツ軍将校と懇意にしていたことでフランス国民から激しい非難に合い、1944年のフランス解放後はスイスのローザンヌにて亡命生活を送っています。 

その間もアメリカではシャネルの株式のほとんどを保有していたヴェルタイマーがシャネルブランドで香水ビジネスを行っていました。

パリでブティック再開

亡命生活を終えてカムバックしたのは71歳となった1954年。シャネルは15年間の空白期間を経て再びヴェルタイマーの支援を受けパリのブティックを再開します。 しかし、フランスにおいては「1930年代」の亡霊と非難され、受け入れてもらえませんでした。

その頃アメリカではマリリン・モンローやヴェルタイマーがシャネルブランドで香水ビジネスを行っていたことで「シャネルルック」と呼ばれるファッションが台頭し熱狂的なファンも増え、ヨーロッパにおけるビジネスも復活しました。

翌年にはシャネル・スーツを発表しモード・オスカー賞を受賞するなど、少しずつかつての栄光を取り戻していきます。その後、チェーンベルトバッグやバイカラーシューズなど現在まで受け継がれる名作を世に送り出します。

そして1971年に87歳で激動の人生に幕を閉じます。

「みんな、私の着ているものを見て笑ったわ。でもそれが私の成功の鍵。みんなと同じ格好をしなかったからよ」
私は好きなことしかしない。私は自分の人生を、自分が好きなことだけで切り開いてきたの」 
「私の生き方そのものがモード」

シャネルの作ったファッションは、女性の生き方さえも変えてしまう”象徴”としての魅力が込められています。

そして、ココシャネルが亡くなってから”CHANEL”は低迷期に入ります。

しかし、長い12年間の低迷期の後。1983年に低迷期から見事に復活をさせた人物が登場します。

アーティスティックディレクターに就任したのは、後に「モードの皇帝」と呼ばれる”カールラガーフェルド”です。