バレンシアガを救った若き天才”ニコラ・ジェスキエール”

”BALENCIAGA”を創設したクリストバル・バレンシアガ死後、低迷から救った若き天才デザイナー”ニコラ・ジェスキエール”の歴史を解説していきます。

Nicolas Ghesquiere

1971年フランス北部コミーヌ生まれのファションデザイナー。

ニコラ・ジェスキエールの歴史

1971年、南仏プロヴァンスの生まれでデザインに目覚めたのは11歳のころ。

母親のファッション雑誌に刺激されて、自分でもスケッチを描くようになった。両親にほめられて自信をつけた彼は、15歳の頃から有名ブランド各社にスケッチのサンプルを送りつけ、高校時代からコリンヌ・コブソンやパリのアニエスべー(agnèsb.)で働いており、ファッション専門学校等で正規の教育は受けず、様々なインターンシップを経てファッション業界で経験を積み上げていきました。

学校を卒業してからは、1991年にジャンポール・ゴルチエ(Jean PaulGAULTIER)のアシスタント・デザイナーとしてキャリアをスタート。2年間ゴルチェのニット部門のアシスタントデザイナーとして働き、その後、イタリアブランドのCallaghan(カラガン)をはじめ数社のデザインも担当するようになります。

21歳の若さで独立。

ライセンスデザイナーとしてバレンシアガへ

1995年にフリーランスでバレンシアガのライセンス・デザイナーとして仕事を手がけるようになります。

当時ジョセフュス・ティミスターがバレンシアガのデザイナーを務めていましたが、低迷していたバレンシアガに追い討ちをかけるように彼のコレクションが不評に終わり辞任。

バレンシアガのクリエイティブディレクターに就任

創設者のクリストバル・バレンシアガ死後、低迷していたバレンシアガは、1997年当時無名だったジェスキエールをクリエイティブ・デザイナーに大抜擢します。

若干26歳での就任です。

デビューは1998春夏コレクション。

独特の構造美と未来的なシルエットを兼ね備え、衝撃的で印象に残るスタイルを生み出し、瞬く間に高い評価を得ました。

低迷していた”BALENCIAGA"は息を吹き返すように生まれ変わり、ジェスキエールによって見事に復活を遂げました。

ジェスキエールは「僕は(低迷する)バレンシアガを救ったが、バレンシアガにも(ファッションデザイナーとして)救われた」と語っています。

2001年にバレンシアガは当時PPR(現ケリング)傘下のグッチグループに買収され世界中に旗艦店をオープンさせ完全復活していきます。

2000年10月、VHI・ヴォーグファッション・アワードで「アバンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イアー」受賞。

2001年10月、CFDA(アメリカファッション協議会)のインターナショナル・デザイナー・アワードを受賞。

2006年、タイム誌により「世界で最も影響力のある100人」に選出。

2007年、フランス政府からシュヴァリエ勲章を授与される。

2013年にバレンシアガのデザイナーを辞任し、後任には有名なアレキサンダーワン(Alexander Wang)が就任します。

ケリングからLVMHへ

2013年10月5日、マーク・ジェイコブスの後任としてルイ・ヴィトン ウィメンズ アーティスティック・ディレクターに就任し、ケリングと双璧となるLVMHグループの一員となります。

その後も活躍は続き2014年11月、ウォール・ストリート・ジャーナル主催によるファッション部門のイノベーター・アワードを受賞。

同年12月には、インターナショナルデザイナー・オブ・ザ・イヤー部門で2014ブリティッシュ・ファッション・アワーズを受賞。

バレンシアガとの争い

バレンシアガに15年間務めブランドを救ったジェスキエールですが「バレンシアガ」側は、ニコラが契約違反を犯したとして提訴し、950万ドル(約9億6300万円)の賠償金の支払いを求め裁判を起こしました。

ニコラ・ジェスキエールがインタビューで「慎みとデリカシー」を欠いた表現をしたとしてバレンシアガ側は訴えていました。

しかし2012年末になって、双方に不和が生じ、バレンシアガはニコラとの契約解除の賠償金として880万ドル(約8億9000万円)を支払うことに合意したとしています。

文書によると、ニコラは賠償金と引き換えに、前雇用主である「バレンシアガ」と親会社の「ケリング(Kering)」を中傷する発言は差し控えると約束していたという。

「バレンシアガ」側は「ニコラが自身の退任をバレンシアガ側の非を理由に正当化するのは心外だ」として、「そもそも全当事者は、ファッション業界の極度のデリケートさに配慮し、経済的利益とブランドイメージを損なう可能性のある憶測が出ないよう、今回の件に関する発言を禁じられていた」と主張している。

同社によると、ニコラが『システム』誌との最初のインタビューに応じたのは2012年12月、契約終了2週間後だった。その中でニコラは「バレンシアガ」との合意を「意図的に」破り、「初回のインタビューから、バレンシアガと親会社に対する『直接攻撃』となる私見を展開した」としている。

2014年裁判外での和解で決着することで両者が合意した。