芸術的なセンスで女性のラインを作った”クリスチャン・ディオール”
わずか10年で数々のデザインを残したクリスチャンディオールの歴史を解説していきます。
CHRISTIAN DIOR
1946年フランスでクリスチャン・ディオールによって創設。
クリスチャン・ディオールの歴史
1905年にフランス北西部ノルマンディのグランビルで生まれ、父親のモーリス・ディオールは肥料の生産事業を行う実業家で恵まれた家庭環境で育ちました。
幼少期に一家はパリへ引っ越し、少年時代はパリの建築に興味を持ち、現代建築や装飾芸術に強い関心があったディオールは芸術に魅了されていきます。
しかし、両親はディオールが外交官になることを望んでいたため、パリ政治学院に進学することになります。
芸術活動もしていたディオールは、ディオール家の名前を出さないことを条件に父から出資を受け1928年ビジネスパートナーと現代美術を扱うギャラリーをオープンしています。
シーズンごとに新しいコンセプトの展覧会を開き、美術詩でも高く評価されます。
しかし、3年後、1930年代の世界恐慌によって彼の父親が資産を失ったことを受けて、ギャラリーも閉鎖を余儀なくされてしまいます。
ディオールは裕福な暮らしから一転して無一文のホームレス状態に陥ってしまいます。 さらに結核をわずらい物価の安いスペインへ移住し1年の療養生活をすることになります。
デッサン画家からクチュリエへ
療養後、パリに戻り友人のデッサン画家ジャン・オセヌンが、自分の家具付きのマンションを貸してくれることになります。彼の元でデッサン画家として修行を積み、デッサン画家として自立した生活を始めます。
その後、デッサンが売れ始めたディオールのもとに、顧客の一人であったロベール・ピケ(Robert Picuet)やリュシアン・ルロンが、ディオールの装飾芸術の知識をもとにした感性やデッサンに感銘を受け、1938年にクチュリエとしてピケのオートクチュール・メゾンで働くことになりました。
ロベール・ピケは著名なデザイナーで、有名な”バルマン”や”ジバンシィ”なども同じ時期にピケから指導を受けており、互いに刺激を受けながら、ディオール本人の才能も開花していったといわれています。
バルマンと共にアシスタントデザイナーへ
第2次世界対戦が始まり、戦時中は1年の兵役、その後1942年にパリに戻り、ピエール・バルマンとともにリシュアン・ルロンのもとでアシスタント・デザイナーの職に就く事になります。
ピエール・バルマンは1945年に自身のメゾンを開き、デビューを果たします。
そんな中、フランスの大富豪であるマルセル・ブサック(Marcel Boussac)に会うチャンスを得たディオールは、自分が思い描くメゾンを説明しました。ファッションのトレンドや自分のメゾンについて熱く語るディオールを見たブサックは、全く無名のディオールに出資する事を決めます。この時ディオールは41歳でした。
クリスチャン・ディオール誕生
1946年12月16日、メゾン「クリスチャンディオール」が誕生しました。
1947年2月12日、初めてコレクションを開催します。ディオールが名付けたコレクションの名前は”コロール”「花冠」でしたが、『ハーパース・バザー』誌の編集長であったカーメル・スノウがこのコレクションを評した『ニュールック』というフレーズで多くの人たちに知れ渡ることとなります。
のちに「ニュー・ルック」と呼ばれたこのスタイルは、遠く離れたアメリカでも好評を博し、クリスチャン・ディオールの世界観が広く認知されていきます。ニュールックはグラマラスなバストとくびれたウエスト、スカートは長い丈で、シルクやウール、サテンといった高級素材を贅沢に使うスタイルです。
しかし、終戦後の貧しい時代、上流階級の女性たちが贅沢なニュールックを身にまとっている傍ら、その日暮らしの生活を送っている人達がディオールの服を身にまとっている女性に対して攻撃し、街では暴力沙汰まで頻繁に起こっていました。
フランスの新聞が否定的な報道をしたり、スカート丈の長さを監視する法制度まで検討されていたのほどでした。
アメリカでもディオールのニュールックのロングスカートを履くことは愛国心に背くとまで言われ、これまでの古いスタイルを頑なに変えない女性も多くいましたが、ハリウッドでニュールックが着られるようになったことで次第に認められ、ディオールが新たなスタイルを確率したことは、アメリカのファッション誌では特に評価されました。
そして1947年にはアメリカで「オスカー・ドゥ・ラ・クチュール」賞を受賞しアメリカへと渡ります。
1947年に鮮烈なデビューを飾ったクリスチャン・ディオールは、わずか数ヶ月で時の人になりました。
ムードネーミングを付けたコレクション
コレクションごとに発表されるそのムードを一言で表す「フライト」「フリー」「チューリップ」のようなネーミングをしたのもディオールが最初で、その後のファッション業界の常識として定着していくことになります。
1948年 アンボル ジグザグ
1949年 トロンプルイユ ミッドセンチュリー
1950年 オブリーク バーティカル
1951年 オーバル プリンセス
1952年 シニュアス プロファイル
1953年 チューリップ キューポラ
1954年 スズラン Hライン
1955年 Aライン Yライン
1956年 アロ- マグネット
1957年 リフレ ミドル スピンドル
こうしてニュールックから始まり、毎シーズン、ラインというテーマに沿って作品を発表しました。常に新しいスタイルを生み出し、批判を恐れずに自分のスタイルを貫き、わずか10年の間で急成長したディオールは、業界の頂点へと君臨します。
突然の死
ディオールは、休暇先のイタリアのモンテカティーニ・テルメを訪れていたが、その地で1957年の10月23日に急死してしまいます。 いくつかの報告によると死因は、魚の骨をのどに詰まらせた後の心臓発作、タイム誌の死亡記事ではカードで遊んだ後に心臓発作で亡くなったと書かれている。 しかし、ディオールと親しい関係にあった社交家のBaron de Redéが記したところでは、「心臓発作の原因は活発な性生活にあった」といった噂が巷では流れていたようですが、いずれにしろ、現在でも真相は謎のままだとか。
創設からわずか12年、53歳でディオールは人生の幕を閉じます。ディオールの突然の死に世界中が驚き、ライバルだったバレンシアガも駆けつけたと言われています。
ディオールは亡くなるまでの数ヶ月の間に次のデザイナーの育成を行っていました。
その後継デザイナーに選ばれたのが、あの有名な「モードの帝王」”イブ・サンローラン”です。